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質問
抽象画は社会情報でしょうか。目的地までの経路を書いた図(絵)は、目印になる建物を示す等、読み手に意味が伝わるように共通概念と思われる図形や縮尺を工夫して表現しますので、そこには社会情報があると思いますが、相手に何かを伝える意図はあっても、読み手に全てを委ねる=自由度がとても高い(と私は思っている)抽象画を社会情報というのは無理があるような気がします。
ここでいう抽象画とは、何を表しているのか(私が)分からない、書いた本人も分からない、心のもやもやをそのままぶつけたような画のことです。
※下線は伝道者による追記 質問者 「窓ガラス」さん
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回答
質問文の下線部により、明らかに社会情報です。 |
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社会情報は「人が意図的に記述、描画、動作などにより交換し合うあらゆるもの」と定義されています。そして、この定義には受け手の理解に関する記述がありません。つまり、社会情報であるかどうかということと、受け手の理解は全く別問題なのです。基礎情報学では、「意味内容の伝達は原理的に不可能」が大原則であること考えれば至極当然のことですね。質問文には「相手に何かを伝える意図はあって…」とありますので、社会情報の定義に合致します。したがって、ここで問題にしている抽象画は間違いなく社会情報であり、これを疑う余地は微塵もありません。逆に他人に何かを伝える意図がない、つまり自分のためだけであるとすると社会情報にはなりえません。こちらについてはこのルーム「Q&Aの部屋」の「2.無意識に発する言葉は社会情報?」を参考にしてください。 質問者の「窓ガラス」さんは、受け手側に理解に対する裁量が大きいことを不満に思われているようですが、それこそが基礎情報学の真髄です!基礎情報学では、意味内容の伝達は受け手側の構築によって疑似的に成立するもの、としています。心的システムは閉鎖系のオートポイエティック・システムなので意味内容の伝達は原理的に不可能。意味は、伝達不可能ですから、受け手の心的システム内で構築されるしかありません。つまり、受け手に全面的/絶対的に依存しています。何をどう思おうが受け手の好き勝手、自由なのです。 でもこのままでは疑似的な伝達にすら成り得ません。疑似的に伝達させる可能性を高めるには、受け手の身勝手な意味の構築に制限を掛けなくてはなりません。この制限作用をしているのが成果メディアです。受け手側の成果メディアは、「ある意味領域を象徴し、これに導く概念である。意味的な領域を狭め、論理的なつながりを与えることにより、誤解が生じないように作用」しています。平たく言えば、送り手が意図する意味を推測して絞り込みを行っているのが成果メディアです。極めて抽象度の高い絵画を見ているときに、そこに描かれているものが何なのが考えますよね。これも成果メディアの作用です。なので端的に言えば、理解できるのも、できないのも受け手の成果メディアの次第。理解できないのは受け手側の問題なのです(「馬の耳に念仏」、「猫に小判」…)。ここで理解できるようになりたいとするなら、各自の成果メディアを鍛えなくてはなりません。基礎情報学的に表現するならば、「社会システムからの拘束/制約を受け入れる」となるでしょう。学校での学習などは、まさにこの過程の一部です。そういえば嘗て現役で教壇に立っていた頃、あまり程度の良くない女子高生に「意味わかな〜い」※を連発されたことがありました。そのときは「意味は分かるものではない、自分で構築するものだ!」と言い返したことを思い出します(笑)。ちなみにフランスの哲学者はロラン・バルトは、作品の意味が作者(送り手)を離れ、受け手だけに依存することを「作者の死」と称しています。 質問文にある「心のもやもや」は明らかに生命情報です。その生命情報を、なんとか具現化しようとするのが芸術でしょう。抽象画に限らず絵画は、自らに生じた生命情報を「描く」という行為を通じて誤解され難い社会情報にしようとする試み※※だと言えるでしょう。この行為は生命情報を持つことのない生成AIには絶対に出来ません。芸術と基礎情報学については、伝道師も考えをまとめたことがあります。それを2023年に東京工芸大学で『創作性と基礎情報学 成果メディアとクリエティビティ』という講義にまとめました。90分と長いですが当時の動画があります。手前味噌ではありますが、ご参照戴ければ幸いに思います。え、動画を見たけど理解できない!ですって。そうなると私の動画は意味不明な抽象画と同じ…つまりそれは機械情報…だとしても包括関係から社会情報であることには変わりありませんね(笑)。 ※ この言葉の背景には、文部科学省が当時推進していた「わかる授業」なる愚かな政策があります。 ※※ この試みの成否は送り手側の成果メディアに委ねられています。 |
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